ヨーロッパの哲学は、一本の道をまっすぐ進んできたわけではない。受け継いだ線と、反発してひっくり返した線が絡み合って、いまは二股のまま。
弟子が師を裏返した
ソクラテスは本を一冊も書かず、質問だけで相手の中の考えを引き出した。弟子のプラトンはその対話を書き残し、本当のものは目に見える世界の外(イデア)にあると考えた。ところがプラトンの弟子アリストテレスは、本質は目の前の一つ一つの物の中にあると言って、師の向きを裏返した。
ソクラテス →
プラトン受け継いだ
尊敬したまま書き残した
今で言うと 職場に、聞いても答えを言わず、質問で返してくるだけの先輩がいるとする。やり取りを重ねるうちにこちらが自分で答えに辿り着くのだが、その人はメモを一枚も残さない。ある後輩が、その先輩を主役にした読み物を何冊も書いた。会話をそのまま写したのではなく、先輩ならこう言うだろうという形で組み立ててある。だから今読んでも、どこまでが先輩の言葉かは切り分けられない。
受け取ったもの
「それって本当はどういうこと?」と質問を重ねて相手の中の考えを引き出すやり方(問答法)と、当たり前とされていることを一度疑う態度。師を主人公にした対話篇という書き方も、その会話の形を器にしたものとされる。
受け取らなかったもの
一冊も本を書かないという姿勢と、「自分は答えを持っていない」という構え。プラトンは書き残す側に回り、さらに問いの先に自前の答え(イデア論)まで立てた。ここは師から継いだものではないとされる。
何が起きたか
ソクラテスは、自分が答えを持っているとは考えず、質問だけで相手の中にある考えを外へ引き出そうとした人だった(産婆術)。プラトンは師が裁判にかけられ、死刑判決が下るまでをその場で見ている。ただし処刑の日はいなかった——本人が後に「病気だったと思う」と書き残している。彼は師を主人公にした対話篇を残し、さらにその先へ進んだ。問いの奥に、目に見える世界の外にある本当の姿(イデア)を置いたのだ。どこまでが師本人の考えかは、いまも議論がある。
プラトン →
アリストテレス反発して逆さにした
尊敬したまま逆を向いた
今で言うと 部活に、「誰が決めたわけでもないのに完全なフォームがどこかに在り、お前らのはその出来そこないだ」と言う先輩がいるとする。後輩は何年も習ったが、そこだけ納得しなかった。本物が別の場所にあるなら、目の前のこのフォームは何なのか。出来そこないと呼ぶだけでは、これがフォームである理由を説明できない。だから彼は一つずつ観察して型に分け、筋道立てて教本にまとめた。
受け取ったもの
「そのものが本当は何であるか」を問う、問いの立て方そのもの。そして議論を積み重ねて学問の形にするやり方。二十年近くプラトンの学園アカデメイアで学んだとされ、土俵そのものは師から受け取っている。
受け取らなかったもの
本当の姿が現実の外に別にある、というイデアの置き場所。継がなかったものはほかにもあるが、これが最大の分かれ目。彼は本質を目の前の一つ一つの物の中に置き直し、生き物や国の仕組みを実地に観察する側へ回った。
何が起きたか
プラトンは、目に見える物は本当の姿(イデア)の不完全な影で、本物は現実の外にあると考えた。弟子のアリストテレスは学園で長くその考えを学びながら、その要になる一点を受け取らなかった——本物が現実の外にあるのなら、目の前のこの馬がなぜ馬なのかを説明できない、と。継がなかったものはほかにもあるが、最大の分かれ目はここ。彼は本質を個々の物の中に置き直し、観察して分類し、筋道立てて学問の形にする方へ進んだ。師を敬いつつ、向きだけを裏返した。
教会が預かり、イスラム世界を経由して戻る
哲学が消えていた空白の1000年ではない。教会がギリシャ哲学を引き取り、アウグスティヌスはプラトン寄りの考えを、トマス・アクィナスはアリストテレスをキリスト教神学に組み込んだとされる。しかもアリストテレスの著作には、いったんイスラム世界へ渡り、そこからの翻訳を通じてヨーロッパに戻ってきたものが多い。
プラトン → アアウグスティヌス受け継いだ
又聞きし、信仰に組み込んだ
今で言うと 前の会社の先輩のやり方を、先輩本人からではなく、それを受け継いだ別の人から又聞きで教わることがある。業種が違っても「大事なのは表の数字より奥の考え方だ」という見方だけは役に立つ。ただし今の職場に合わない部分は、ここは違うとはっきり言った上で外して使う。
受け取ったもの
プラトン本人の本ではなく、数百年後の弟子筋である新プラトン主義の書物を通して、目に見える世界より目に見えない永遠のほうが本物だ、という上下の順番と、真理は自分の内側を掘って見つけるものだ、という向きを受け取った。
受け取らなかったもの
魂が生まれ変わるという話や、学ぶとは魂が前から知っていたことを思い出すことだ、という考えは受け取らず、内側で見つかる真理は神が照らすからだと説明し直したとされる。
何が起きたか
プラトンは、目の前の世界は本物の影にすぎず、本物は目に見えないところにあると考えた。アウグスティヌスがこれを知ったのは本人の対話篇からではなく、数百年後にその考えを受け継いだ新プラトン主義の本を通してだったとされる。彼はそこで見つけた「見えないほうが本物」という形を、信仰を説明する道具として使った。ただし教えとぶつかる部品は、そのつど断って外している。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
アリストテレス → トトマス・アクィナス受け継いだ
正面から迎え入れた
今で言うと 職場に、よその会社から来たやり方が入ってくることがある。うちのやり方じゃないと言って締め出す人もいれば、それを自分の仕事の骨組みとして正面から入れ直す人もいる。トマスは後者だった。しかも丸呑みはせず、うちの目的とどうしてもぶつかるところでは、うちのやり方を通している。
受け取ったもの
「本当のことは天の上ではなく、目の前の一つ一つの物の中にある」という現場主義。それと、話を筋道立てて並べていく論理の道具一式。観察して分類して体系に組み上げるやり方を、神学の骨組みとしてそのまま使った。
受け取らなかったもの
世界に始まりがあるか、といった問いは理性だけでは決着がつかないと見て、そこは信仰の側を通した。理性でここまでは届く、その先は届かない、と自分で線を引いている。
何が起きたか
アリストテレスは、本当のことは天の上ではなく目の前の物の中にあると考え、観察して分類する道を選んだ。その著作は中世のヨーロッパで、イスラム世界の学者たちの注釈とともに読み直され、やがてギリシャ語からの直接訳も整った。トマス・アクィナスは、この外から来た理屈を危険物として締め出さず、神学の骨組みとして正面から組み込んだとされる。合わないところでは、信仰の側を通している。
疑うか、経験するか
デカルトは感覚も常識も夢かもしれないと徹底的に疑い、疑っている自分だけは疑えない、というところから始め直した(理性の側)。イギリスではその逆に、知識は経験から作られると考える流れ(ロック、ヒュームら)が育つ。ルソーはそこから外れた枝で、人が集まって社会を作るときの正しさ(一般意志)を問題にした。
アアウグスティヌス →
デカルト遠くから効いた
同じ入口を別々に選んだ
今で言うと 親が昔つけていた家計のやりくりと、子が社会人になってから自力で編み出したやり方が、後で比べたらそっくりだった、ということがある。教わった覚えはないのに、行き詰まったときに「まず全部を疑って、確実に残るものだけ数える」という同じ一手に行き着く。似ているからといって、伝わったとは限らない。
受け取ったもの
「確かなものは外の世界ではなく、自分の内側に降りていって探す」という向き。外の見え方をいったん疑っても、疑っている自分そのものは残る、という手の打ち方。似た形をアウグスティヌスが千年以上前に書いていたとされる。
受け取らなかったもの
信仰から出発する構えのほうは受け取っていない。デカルトは、まず誰でも辿れる筋道だけで土台を作ろうとした。そもそも本人が「アウグスティヌスから受け取った」と名乗ったわけではなく、後から並べて見えてきた線である。
何が起きたか
アウグスティヌスは、確かなものは外ではなく自分の内側を掘って見つかると考え、「たとえ間違っていたとしても、間違えている自分はいる」という趣旨のことを書いたとされる。千二百年後、デカルトは感覚も常識も夢かもしれないと疑い抜き、疑っている自分だけは残る、というところから始め直した。ただしその疑いは目的ではなく、確かな土台を見つけるための手順だった。形は似ているが直接教わった関係ではなく、影響の度合いには議論がある。
⚠この線は「諸説ある」ものです。断定して語らないこと。
トトマス・アクィナス → イイギリス経験論遠くから効いた
同じ入口に、別の道から立った
今で言うと 部活の先輩のやり方が肌に合わず、細かい決まりごとを全部否定して出ていった後輩がいたとする。ところが何年か経って見比べると、「まず自分の体で試して覚えろ」という出発点の一言だけは、二人とも同じところに立っていた。受け継いだのではなく、別々に同じ場所へ行き着いたのだ。
受け取ったもの
結果として同じ入口に立った。知ることは、天から降ってくる理屈ではなく、まず目や耳から入ってくるところから始まる、という順番である。受け継いだというより、別の道を通って同じ一歩目に行き着いた形だ。
受け取らなかったもの
その入口の上に積み上がっていた神学の体系のほうは、受け取るどころか正面から退けた。ロックやヒュームらは、権威ある本や教わった答えを土台にするのをやめ、経験で確かめられる範囲を知識の限界とした。
何が起きたか
アリストテレス系の学問には、知ることはまず感覚から始まる、という考え方が受け継がれていた。イギリスのロックやヒュームらは、その学問の言葉づかいや体系のほうを正面から退け、人は生まれたときには何も書かれていない板のようなもので、書き込むのは経験だけだ、という方向へ進んだとされる。ただし「アリストテレス系イコール経験の側」は後から見た整理で、そのまま史実として言い切ると危ない。
⚠この線は「諸説ある」ものです。断定して語らないこと。
カントがいったん一本にまとめる
カントは、理性の側と経験の側の対立を統合しようとした人。人は物そのものを直接には知れず、自分の認識の枠を通してしか世界を見られない、と論じた。ヘーゲルはそれを引き継ぎ、対立が次の段階を生むという運動(弁証法)で歴史そのものを説明しようとした。
デカルト →
カント受け継いだ
受け継ぎつつ、線を引いた
今で言うと 先輩から「人の話を鵜呑みにするな、自分の頭で確かめろ」という姿勢を受け取った後輩。この姿勢は一生やめない。ただし働くうちに、調べれば決着がつく問いと、どれだけ考えても手持ちの材料では決着がつかない問いがあると気づく。教えを捨てたのではなく、答えの出る問いと出ない問いを見分けられるようになった。
受け取ったもの
確かさの土台は外の世界ではなく人間の側にある、という向きそのもの。ただしカントが受け継いだのはこの向きだけで、デカルトが土台に据えた「考えている私」から魂の正体まで分かるとは考えなかった。
受け取らなかったもの
「疑い抜けば理性だけで世界そのものの正体まで届く」という見込みのほう。カントは、理性が届くのは人間の枠を通した世界までで、その外の「物そのもの」(人の見方をいっさい通さない、世界のありのままの姿)には届かないと線を引いた。
何が起きたか
デカルトは、感覚も常識も夢かもしれないと徹底的に疑い、それでも疑えない「いま疑っている自分」を土台に据えた。カントも、確かさを人間の側から測るというこの向きは受け取る。ただし彼は、理性だけで進めるとは考えなかった。材料になる経験がなければ人は何も知れないし、理性が届くのも経験の枠の中までだと範囲を測り直したのである。出発点の向きは引き継ぎ、到達できる範囲のほうに線を引いた。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
イイギリス経験論 →
カント受け継いだ
指摘されて目が覚めた
今で言うと 友達に「お前が『いつもこうなる』って言うそれ、実際に見たの? 何度か続いただけじゃない?」と突っ込まれた場面。ふつうは言い返すか黙るかの二択になる。カントが選んだ三つ目は、「たしかに見てはいない。でもそれは、人が何かを見て『こうなった』と受け取る時点で、誰でも必ず使っている見方だからだ。自分だけの思い込みではないし、外そうにも外せない」だった。
受け取ったもの
「知識の材料は経験からしか来ない」という指摘。とくにヒュームの「原因と結果が必ずつながっている場面を実際に見た人はいない。何度も続けて見た習慣がそう思わせているだけだ」という問いを、逃げずに正面から受け取った。
受け取らなかったもの
「だから因果は理屈では裏づけられない」で止まる見通しのほう。カントは、原因と結果というつながりは経験から拾ってくるものではなく、人間が経験を受け取るときに必ず使ってしまう側の道具だと考え直した。
何が起きたか
イギリスの側(ロック、ヒュームら)は、知識は生まれつきではなく経験から作られると考えた。ヒュームはさらに進め、原因と結果が必ずつながる場面を見た人はおらず、繰り返し見た習慣がそう思わせているだけで理屈では裏づけられないと論じた。ただし彼は、その習慣を捨てろとは言っていない。カントはこの指摘に眠りを覚まされたと後に書いたとされる。押し返したのは裏づけの一点で、因果は人の見方の側にあるからこそ、どんな経験にも例外なく当てはまると考え直した。
ルソー →
カント遠くから効いた
姿勢を教わり、形は作り替えた
今で言うと 勉強ができることが一番偉いと思っていた高校生が、勉強は苦手でも筋を通して生きている友達の親を見て、物差しごと入れ替わる。教わったのは公式でも解き方でもなく、何を偉いと思うかのほうだった。そのうえでこの高校生は、教わった考えを家族みんなの話から自分ひとりの生き方の話へ置き直して使った。カントがルソーにしたのもそれである。
受け取ったもの
知識ではなく、価値の物差しのほう。人の値打ちは学問の有無で決まらないと考えを正された、と書き残したとされる。あわせて「自分たちで決めた決まりに自分で従うことこそ自由だ」という形も受け取り、道徳の芯に置き直したとされる。
受け取らなかったもの
感情や自然な良心をそのまま道徳の根拠にする道は取らなかった。また、みんなで決めるという政治の枠組みも持ち込んでいない。カントは「一人ひとりが尊い」という同じ結論を、感じ方の側ではなく、誰にでも通る理屈の側から組み立て直した。
何が起きたか
ルソーは、人は自由なものとして生まれたのにいたるところで縛られていると見た。そして正しさの根拠を、身分や学識の高さではなく、みんなの利益だけを見据えたときに人々が一致する意志(一般意志)に置いた。カントはまず向きを正される。人の値打ちは頭の良さで決まらない、というほうだ。そのうえで、みんなで決めた決まりに従うのが自由だというルソーの形を、一人ひとりが自分に課す決まりの話へ作り替えた。集団の話を、個人の道徳の話へ移したのである。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
カント →
ヘーゲル受け継いだ
引き継いで、枠を動かした
今で言うと 親から「うちのやり方はこうだ」という枠を受け取った子。枠があること自体は認める。ただし親が「この線から外は考えても仕方ない」と言った所で、子は止まらなかった。外の人とぶつかるたびに家のやり方を作り直し、そのたびに前より多くの人とやっていける形になっていく。受け継いだのは枠があること、変えたのはその枠は固定ではないということだった。
受け取ったもの
「人は世界をそのまま受け取るのではなく、自分の側の枠を通して見ている」という発想。ヘーゲルはこれを土台に据え、考える側と考えられる世界を切り離さないまま扱う道へ進んだ。
受け取らなかったもの
枠の外に、人間には決して届かない「物そのもの」がある、という線引きのほう。ヘーゲルは、届かない外側があるとは考えなかった。代わりに、枠そのものが対立を通して作り替えられ、前より広い形になっていくと見た。
何が起きたか
カントは、人は物そのものを知ることはできず、自分の枠を通してしか世界を見られないと論じた。ヘーゲルもこの見方は受け継ぐ。ただし枠が最初から固定されているとは考えなかった。ある考えとそれに反する考えがぶつかり、どちらも丸ごと捨てずに次へ進む——その動きで枠が育ち、前より多くを取りこめる形になる。歴史全体も、自由が誰のものかという範囲が広がる過程として同じ運動で描いた(「正・反・合」は後世の整理とされる)。
ヘーゲルの後で三方向に裂ける
ヘーゲルの大きな体系に、あちこちから反発が出る。マルクスは弁証法を受け継いだまま「歴史を動かす土台は精神ではなく経済だ」と上下を逆さにし、キェルケゴールは体系よりも「この私一人」を選んだ。同時代の宿敵ショーペンハウアーの本には、若い頃のニーチェがのめり込んだとされる。
ヘーゲル →
マルクス反発して逆さにした
方法は借りて土台を逆に
今で言うと 部活の先輩から、練習メニューの組み立て方を丸ごと受け継ぐ。ただし「理想のフォームに近づけば勝てる」という先輩の前提だけは受け取らず、「勝敗を決めるのは体力と道具だ」と土台を入れ替えた。組み立て方は先輩ゆずりなのに、出てくる結論はまるで別物になる。
受け取ったもの
対立がぶつかって次の段階が生まれる、という歴史の動きの見方(弁証法)と、世界をひとつの大きな運動として捉える枠組み。ただし観念的な包みは剥がし、動きの型だけを取り出した。
受け取らなかったもの
その運動を動かしている主役は精神や考えのほうだ、という順番。マルクスは、人が食べ・働き・物を作る仕組みのほうが先で、考え方は後から乗るものだと見た。
何が起きたか
ヘーゲルは、対立を通じて次の段階へ進む運動として歴史を捉え、その主役を理性や自由の意識の側に置いた。マルクスは「対立が次を生む」という動きの見方は引き受けたが、そこに巻かれていた観念的な包みは剥がし、自分の方法はむしろ正反対だという趣旨を後年書いている。動かしている土台は精神ではなく、人が働き物を作る仕組みのほうだ、と入れ替えた形になる。
ヘーゲル →
キェルケゴール反発して逆さにした
体系より、この私を取った
今で言うと どんな出来事も、後から筋道立てて説明してくれる人が家にいる。説明はよくできていて、聞けば確かに納得する。でもその説明は、まだ決めていない今夜の自分に、どちらを選べとは言ってくれない。しかも選んだ後を背負うのは自分ひとりだ。キェルケゴールが引っかかったのはそこ。
受け取ったもの
対立や矛盾を通してしか人は動けない、という緊張の感覚。向かい合うものがぶつかる場所に目を向ける見方は残した。ただし、その対立が最後にひとつへ収まるという着地までは取っていない。
受け取らなかったもの
一人の人間を、大きな流れの一部として説明しきってしまう体系。どれだけ筋が通っていても、明日どちらを選ぶかを引き受けている本人がそこに入らない、として受け取らなかった。
何が起きたか
ヘーゲルは、個々の出来事も対立を通じて理解できる大きな流れの一部だと考えた。キェルケゴールはその説明の見事さを認めたうえで、完成した説明の中には「いま選びつつある自分」が入らないと考えたとされる。信じるかどうかを、代わりのきかない一人として引き受ける。そこを世界の説明より先に置いた。彼が直接叩いたのは当時デンマークのヘーゲル派だった、という見方も近年は強い。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
ヘーゲル → シショーペンハウアー反発して逆さにした
認めず、格上に挑み続けた
今で言うと 入ったばかりの新人が、社内で一番人気の講師の勉強会に、わざと同じ時間で自分の会をぶつける。学んで直すのではなく、前提から違うと言って正面から挑んだ形。人は当然あちらへ流れ、こちらは空席だらけ。それでも降ろさなかった旗に人が振り向いたのは、何十年も後、本人の最晩年だった。
受け取ったもの
受け継いだものはほとんどない。共有していたのは、人は世界をそのままの姿では知れない、というカント由来の出発点だけで、そこから先は正反対の方向へ歩いた。
受け取らなかったもの
歴史は対立を経てより良い方へ進んでいく、という進歩の物語。世界の根にあるのは理性ではなく、目的も理由もなくただ生きようとする衝動だと考えたので、この筋書きごと受け取らなかった。
何が起きたか
ヘーゲルは、対立を経て自由の意識が広がる方向へ歴史は進むと考えた。十八歳下のショーペンハウアーは、当時のベルリン大学では聴講料頼みの無給講師。看板教授だったヘーゲルに正面から異を唱え、あえて同じ時間に自分の講義をぶつけたと伝えられるが、学生はほとんど集まらなかったとされる。世界の根は理性ではなく盲目的な意志だという彼の見方に人が振り向いたのは、晩年になってからだった。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
シショーペンハウアー →
ニーチェ受け継いだ
惚れ込み、やがて離れた
今で言うと 高校のとき、世の中の建前を片っ端から見抜いて話す先輩に夢中になり、その物の見方を丸ごと借りた。何年か経って気づく——見抜く目はいまも自分の武器だが、「だから何にも期待しないのが正解」という先輩の結論だけは、自分の答えではなかった。目は借りて、結論は返した。
受け取ったもの
世界を動かしているのは理屈ではなく衝動だ、という見方。加えて、世間の道徳をいったん疑ってかかる姿勢と、学問の内輪ではなく一人で考える人の姿を受け取った。
受け取らなかったもの
その先の出口。苦しみの元は衝動なのだから、望むのをやめて静まるのがよい、という方向。ニーチェはそこを取らず、逆にその衝動ごと肯定する側へ向かった。
何が起きたか
ショーペンハウアーは、世界の根にあるのは満たされてもすぐ次を求める終わりのない衝動で、だから人生は苦しみが基本だと考えた。学生時代のニーチェはこの本にのめり込み、後に彼を教育者として讃える文章まで書いたとされる。だが年を重ねるにつれ、物の見方は残したまま結論のほうは手放し、生きることを肯定する側へ移っていった。
哲学の隣に、心の枝
哲学のすぐ隣で、心そのものを扱う枝が伸びた。フロイトは、人の行動は本人が意識していない動機に大きく左右されると論じ、無意識という見方を広めた。後継者と目されたユングは、無意識の捉え方をめぐって決別し、個人を超えて人類に共通する層(集合的無意識)を考えた。
ニーチェ →
フロイト遠くから効いた
距離を取ったまま重なった
今で言うと 休憩室で先輩が「あの人の正義感、たぶん嫉妬だよ」とこぼしていた。教わったわけでも真似したつもりもないのに、あなたはいつのまにか同じ見方をしている。違うのはその先だ。先輩のように生き方まで作り替えはせず、あなたはそれを面談で相手の本音を探る道具として使った。
受け取ったもの
人が語る立派な理由の裏に、本人も認めたくない別の動機が隠れているという見方。心には自分で気づけない部分があり、そこが行動を動かしているという発想。
受け取らなかったもの
ニーチェが出した処方箋の側。与えられた価値に頼らず自分で人生の意味を作り直せ、という生き方の提案までは受け取らず、医者として症状を診る技法の話にとどめた。
何が起きたか
ニーチェは、人が掲げる正義や道徳の裏に、弱い側が強い側へ抱く妬み(ルサンチマン)が隠れていることがある、と考えた。表向きの理由と本当の動機は別だ、という見方である。フロイトはほぼ同じ時代の人で、この「本人が自覚していない動機」を哲学ではなく診察室の話にし、夢や言い間違いを手がかりに扱おうとした。ただし二人は師弟ではなく、フロイト自身は影響を認めることに慎重だったとされ、どこまで受け取ったのかは今も議論がある。
フロイト →
ユング反発して逆さにした
敬いながら枠の外へ出た
今で言うと 職場で先輩の新しいやり方に惚れ込み、一番弟子になった後輩がいる。だが現場を重ねるうち「この説明では足りない場面がある」と気づき、考え方の範囲を広げる案を出した。先輩は土台が崩れると譲らない。やり取りは険しくなり、気持ちのもつれもあったと伝わるが、決定的だったのは同じ看板を掲げられなくなったことだ。
受け取ったもの
人の意識の外に心の層があり、そこが行動を動かしているという見方そのもの。夢をその手がかりとして読む仕事も引き継ぎ、決別した後も生涯の中心テーマにし続けた。
受け取らなかったもの
無意識を、個人が抑え込んだ記憶や欲望の倉庫とだけ見る捉え方。心を動かす力を性的な欲求を中心に説明する枠組みも受け取らず、もっと広い心のエネルギーとして捉え直した。
何が起きたか
フロイトは、人の行動は本人が意識していない動機に大きく左右されると論じ、その無意識を、個人が抑え込んだ記憶や欲望がたまる場所と捉えた。ユングははじめその見方に強く引かれ、後継者と目されるほど近くにいた。だが、国も時代も違う人の夢や神話に同じ形のイメージが繰り返し現れることを重く見て、個人の経験を超えて人類に共通する層(集合的無意識)があると考えるようになる。無意識をどう捉えるかで折り合えず、二人は袂を分かったとされる。
二股に分かれて、まだ合流していない
20世紀のヨーロッパ哲学は、大きく2本に分かれた。片方はことばの使い方を調べる側(フレーゲやラッセルの流れを受けたウィトゲンシュタイン)、もう片方は生き方そのものを問う側(フッサール・ハイデガーを経由したサルトルとボーヴォワール)。この2本は同じ時代に並走しながら、ほとんど話が噛み合わないまま今に至る。
キェルケゴール → フフッサール・ハイデガー受け継いだ
直接ではなく、遠回りで合流
今で言うと 部活を去った先輩が「チーム全体の話ばかりで、お前自身がどうしたいかを誰も聞かないよな」と言い残していった。数年後の部長は先輩に会ったこともないが、「思い込みを外して、自分に見えている通りをまず書き取ろう」という別のやり方を持ち込む。二つが同じ方を向いていたと気づかれるのは、さらに後の代になってからだった。
受け取ったもの
「まず一人称から始める」という出発点。ただし重なるのはそこまでで、行き先は違う——キェルケゴールは他の誰にも代われないこの私へ、フッサールは誰にでも当てはまる構造の取り出しへ向かった。
受け取らなかったもの
キェルケゴールの中心にあった信仰——神の前にただ一人で立つ、という宗教の枠は受け取られていない。フッサールが目指したのは、あくまで学問の土台を作り直すことだった。
何が起きたか
キェルケゴールは、ヘーゲルの巨大な体系を前に「そこに、この私一人はどこにいるのか」と問い返した人だった。フッサールはその問いを本人から受け継いだわけではなく、別の道から「理論をいったん脇に置き、自分に現れている通りに世界を書き取る」という方法を作った。二つの流れが「実存」という一本にまとまるのは、もう少し後の世代のところだとされる。
⚠この線は「諸説ある」ものです。断定して語らないこと。
フフッサール・ハイデガー →
サルトル受け継いだ
方法だけ借りて外へ出た
今で言うと 先輩が置いていったノートに「決めつけずに、まず見えている通りに書け」という観察の型が書いてある。会ったこともない後輩はそれを独りで読み込んで身につけ、先輩の研究テーマにではなく自分の生き方に向けて使い始める。しかも「本当の自分なんて最初から入っていない」と言い出し、その分の責任も全部自分で背負うと決めた。
受け取ったもの
「意識はいつも何かに向かっている」という見方と、先入観をいったん脇に置いて現れている通りを記述するやり方。サルトルはこの道具一式をそのまま持ち帰った。
受け取らなかったもの
フッサールが本命にしていた「哲学を厳密な学問として建て直す」という目標。意識の奥に本体としての自我があるという見方も取らず、意識は中身の空っぽな働きだとした。何者でもないぶん、選んだ結果は全部自分持ちになる。
何が起きたか
フッサールは、理論や常識をいったん括弧に入れ、自分に現れている通りに経験を記述し直すことで学問の土台を作れると考えた。サルトルは本人に師事したのではなく、ベルリンでその著作を読み込んでこの方法に飛びついたが、向けた先は学問の土台ではなく人間そのものだった。意識を覗いても決まった中身は入っていない——だから人はあらかじめ何者でもなく、選ぶことで後から自分になる、と論じた。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
フフッサール・ハイデガー →
ボーヴォワール受け継いだ
誰も見なかった側へ向けた
今で言うと 「思い込みで書かず、見えた通りに記録しろ」という物差しを本で覚えた人が、それを、これまで誰も書いてこなかった側の日常に向けてみる。すると、名簿の「普通」の欄が最初から片方の姿で作られていて、もう片方はそこからどれだけ外れているかでしか説明されてこなかったと分かる。見落とされていた、という話ではない。
受け取ったもの
「頭で作った説明より、当人に体験されている通りをまず書き取る」という現象学のやり方。ボーヴォワールは、生きられた経験そのものを哲学の一次資料として扱った。
受け取らなかったもの
「誰にでも当てはまる普遍的な構造を取り出す」という方向は取らなかった。体も、その人が置かれた社会的な立場も、脇に置くどころか、記述すべき中身そのものだとした。
何が起きたか
フッサールは、理論より先に、自分に現れている通りの経験を丁寧に書き取れと説いた。ボーヴォワールはその手つきを、哲学がほとんど記述してこなかった対象——女性として生きるとはどういうことか——に向けた。すると、それまで「人間一般」として語られてきた経験が、実は片方の側の姿を基準として据えたもので、もう片方はその基準からのズレとしてしか説明されてこなかった、と見えてくる。
⚠この線は「おおむね認められている」ものです。断定して語らないこと。
フフレーゲ →
ウィトゲンシュタイン受け継いだ
尊敬したまま外まで運んだ
今で言うと 直接教わったことはないけれど、その人の本と何通かの手紙で「感想とルールを混ぜるな、言葉は正確に使え」と叩き込まれた先輩がいる。後輩はその物差しを守り抜いた結果、「先輩、この議題、そもそも問いの立て方が壊れていませんか」と会議を止めてしまう。教わった厳しさは本物なのに、先輩はその結論には賛同しなかった。
受け取ったもの
「言葉の意味は、話し手の頭に浮かぶイメージのことではない」という厳しい線引きと、それを扱うための論理の道具。ウィトゲンシュタインはこの厳密さをそのまま引き継いだ。
受け取らなかったもの
フレーゲが人生を懸けた「論理によって数学の土台を築く」という建設の仕事。ウィトゲンシュタインは同じ道具を、哲学の問いの多くは言語の論理を取り違えたせいで問いの形そのものが壊れている、と示す方へ使った。
何が起きたか
フレーゲは、言葉の意味を頭の中の心理から切り離し、論理のしくみの側で扱おうとした人だった。若いウィトゲンシュタインは弟子だったわけではなく、数回の面会と手紙でやりとりした間柄だが、その厳密さを受け取り、前期の『論理哲学論考』で「言葉で意味を持って言えるのはここまで」と線を引いた。ただしその外側(倫理や人生の意味)を捨てたのではなく、語れないが大事なものとして残した。フレーゲ自身はこの本を評価しなかったとされる。
サルトル →
ボーヴォワール対等な相棒
対等に、最初に読み合う
今で言うと 同期入社の二人が、提出前の企画書を必ず互いに見せ合う関係を何十年も続けたようなもの。片方の名前が世間に知れ渡っても、もう一方が助手になったわけではない。むしろ「そこは違う」と言い切れる相手だったから続いた——ずっと仲良しだった、という単純な話ではない。
受け取ったもの
互いに、書きかけの原稿を最初に読ませ合う相手だった。共有していた出発点は「人はあらかじめ何者でもなく、選択によって後から自分になる」という見方。
受け取らなかったもの
ボーヴォワールは「人はどんな状況でも自由だ」という強い言い方は取らなかった。自由はその人の置かれた状況と、他人の自由に縛られる——ここは最後まで譲っていない。
何が起きたか
サルトルは「人には決まった中身がなく、自分の選択で自分を作る」と論じた。ボーヴォワールはその出発点を共有しつつ、自由はいつも置かれた状況の中でしか使えないと押し返した。二人は同じ年の教員資格試験にそろって上位で受かった同格の書き手で、片方が教え片方が習う関係ではない。関係そのものは理想の物語として語られがちだが、実際は複雑だったことも知られている。
この図が省いていること(正直な注記)